ご先祖たちの軌跡

私のご先祖たちが生きた時代や、彼らがどのように生きてきたのかを備忘録としてまとめていきます。

先祖調査を場所から行ってみる

私の場合、父方祖父の系統について、戸籍から探れる情報は多くはありませんでした。

 

そこで、次に始めたのは、先祖が住んでいた場所の歴史を調べてみることでした。

先祖が住んでいた場所を調べることで、先祖がどのような生活をおくっていたかわかるかもしれないと考えたからです。

 

父方祖父の系統の本籍地は戸籍上「名古屋市西区押切町8丁目」となっています。

現在の「名古屋市西区名西1丁目」です。

名古屋市西区の歴史を調べるうえで、手っ取り早いのは名古屋市の図書館で資料を調べることですが、私の居住地は神戸のため、簡単に名古屋市の図書館まではいけません。

そこで、活用させてもらったのが、名古屋市の図書館が提供する「レファレンスサービス」です。

これは、名古屋市に関することで調べてほしいことをメールで依頼すると、図書館の司書の方が代わりに調査したうえで、メールで返信してくれるというものです。

 

私はそのレファレンスサービスを使って、幕末期の名古屋市西区押切町8丁目周辺の街並みについて教えてほしいと依頼してみました。

街並みが分かれば、百姓だったのか町人だったのか、あるいは武士だったのかの推測がある程度できるからです。

 

そして、調査の結果を返してくれたのですが、結果は、はっきりとしたことはわからないとのことでした。

たとえば、「愛知縣名古屋區市街地籍全圖」という明治18年頃に完成した地籍全図の復刻資料を調べていただいたのですが、該当地域がちょうど地図の切れ目で、該当住所の様子はわからなかったようです。

 

但し、参考になりそうな情報もありました。

 

名古屋市西区全体の歴史は、「清州越え」で形成された城下町「古い西区」と昭和30西春日井郡山田村合併により商工業・住宅化した「新しい西区」のふたつの沿革と土地がらの異なる町があるということ。

 

また、現在の名西1丁目の学区は「南押切学区」「栄生学区」「榎学区」に分かれ、それぞれの
学区は以下のような特徴があること。


南押切学区は、明治以前のこのあたりは押切村と呼ばれていたところで、細工人
町(現在の平野町)を中心とした職人のまちであった。


栄生学区は、明治初年までこのあたりは栄村(さこむら)と呼ばれていたところ
で、古書には見渡す限りの水田地帯。


榎学区は、学区全体を一言で特徴づけることは容易でないが、やはり商・工業を
中心とした街並みである。東京芝浦電気株式会社名古屋工場など大工場のほか、中小
の向上、商店が多い。

 

おそらく、先祖の本籍地の地番からすると、南押切学区か榎学区に該当すると思われ、歴史的には町人街と思われます。

思い返せば、昔亡くなった父に先祖はどんな職業だった聞いたところ、寺子屋をやっていたと答えていました。

これが本当であれば、先祖は町人街に住んで寺子屋を営んでいたというストーリーは自然です。

 

このように、過去の街並みから先祖の暮らしを推察することもできるというわけです。