ご先祖たちの軌跡

私のご先祖たちが生きた時代や、彼らがどのように生きてきたのかを備忘録としてまとめていきます。

母方の家系調査②

かつて母が、「私のおばあちゃんは、武家の娘だよ」と言っていました。

入手した戸籍を使って、それを証明してみようと思い立ちました。

 

母の言葉を、正確に直すと、母の父の母が武家の娘だというのです。

私から見れば、母方祖父の母が武家の娘ということです。

入手した戸籍から、母方祖父の母の父の名前や生家の住所はわかりました。

さて、そこからどうやって、母方祖父の母が武家の娘と証明していくか。

 

手っ取り早いのは、母方祖父の母の父が武士だったことを証明することです。

母方祖父の母の出生日から考えて、その父は間違いなく幕末に存命でした。

現在の上越市は、江戸時代、高田藩に属していました。

そして、高田藩には高田藩士の名簿、いわゆる「分限帳」が作成されており、それが現存しております。

その分限帳に、母方祖父の母の父の名前があれば、一件落着というわけです。

 

その分限帳に当たってもいいのですが、私は、もう少し裏を取ってみようと思い、別のアプローチを採用してみました。

それは、母方祖父の母の生家が武家町にあるかどうかを確認することです。

母方祖父の母の生家の住所は、「高田市主水町」というところです。

ここが、江戸時代に武家町であれば、武家の家である可能性は高いはずです。

そこで、「高田市主水町」が武家町であったかどうかを、上越市立図書館に問い合わせてみました。

いわゆる「レファレンスサービス」というサービスです。

 

この「レファレンスサービス」は、基本、どこの図書館でも行ってくれます。

大きい図書館であれば、問い合わせ専用フォームが準備されています。

このような専用フォームがなくとも、直接メールしても大丈夫です。

上越市立図書館には専用フォームがなかったので、HPに記載してあったアドレスに直接問い合わせてみました。

 

すると、次のような回答がありました。

  • 角川日本地名大辞典15巻 新潟県』(神戸市立中央図書館所蔵あり)には、「p1313 主水町は明治5年から昭和5年の町名、昭和5年から西城1~4丁目。松平光長の家臣、片山主水の屋敷があったのが町名の由来。のちに足軽長屋がつくられ、主水長屋と呼ばれた。明治21年の戸数は26、人口118人」などの記載があります。
  • 上越市史 普及版』平成3年刊行 上越市史編さん委員会/編 p407 新旧町名対照表では、西城2丁目の旧町名が「中殿町、新中殿町、主水町、中殿通町」とあるため、現在の西城2丁目の一部だったことがわかります。

  • 町名の由来となった片山主水の屋敷の場所は『高田城下之図』に記されています。この絵図は、新潟県立図書館ホームページの越後佐渡デジタルライブラリーで画像をご覧いただけます。また明治初年の住居地図『旧高田藩内絵図』の画像もあります。こちらも主水町の辺りに住居が何件あったか参考になると思います。

  • p99~101 住居の章に、昭和27年撮影の「主水長屋」の写真が掲載されています。場所は現在の大手町小学校裏と記載されていることから、その辺りが主水町だったと思われます。その他小倉家(250石)、旧伊奈主水家(1000石)の写真が掲載されており、武家の様子がわかります。

  • 「(本文より抜粋)「知行取・切府・足軽」の三階級に分かれ、切府と足軽は長屋、知行取は独立家屋だった。(略)形式としては書院造と農家の折衷型で、屋根も200石級で、わらぶきであった。」と記載されています。p102以降は町家、農家、花街の住居の説明です。

これらの回答から、おそらく高田市主水町は江戸時代、武家町だったと推察できます。

母が言っていた言葉に、信憑性が出てきました。